正岡子規碑は、かつての八郎潟を眺望する三倉鼻公園(南秋田郡八郎潟町)にある。端正な姿の碑で、秋高う 入海晴れて 鶴一羽 子規と文字も美しい。碑背に「昭和39年9月15日、正岡子規句碑建設会 湖畔時報社 清華書 亀鵬刻」とある。 子規がこの地に立ったのは明治26年8月14日で、95年前のことになる。 『はてしらずの記』になった7、8月の奥羽の旅のその果てであった。 いまそれをみると、松島、象潟の風光を求め、蕉翁の残した道筋を尋ねて、山あれば足あり、金あれば車あり、 |
奥山羽水を踏み越えて胸中のふさぎを解こうと、
言葉では まさにたかをくくった 旅立ちであった。3年前に喀血し 病魔に冒されている 身体であった。 福島あたりまでは迎える人もあったが、岩沼の実方(さねかた)中将の遺跡を採すころは、疲労の極、ただ うとうとと睡魔に襲われて 枕一つが友といったありさまだった。 7月31日から8月5日まで 仙台の槐園子の厚い志に慰められはしたが、それからの旅は迎える人とてなく、旅宿と路銀に苦渋を強いられた。 27歳の若造では無理からぬ話であった。作並、最上川舟下りの後、8月10日には下駄を捨てて わらじとなって北に向かった。 象潟もろくに見もせず11日の本荘では旅宿すべてに断られ、石脇まで足を引きずったが かなわず、途方にくれて本荘に帰り、警察署に泣き ついて むさくるしい宿に入ったのは既に夜半であった。 旅の道々文学を語ろうと志して出掛けただろうから、その悔しさが思いやられる。 13日、秋田を素通りして人力車で大久保に着いて泊まり、三倉鼻に立ったのは14日、 |
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その夜は秋田に帰って旅亭についた。 15日秋田をたち、16日六郷から岩手へ、19日は汽車で水沢、20日車窓にもたれて白河を越え正午上野者、帰庵。 「秋風や 旅の浮世の はてしらず」という旅であった。 おそらくは、不満と悔恨と自嘲(じちょう)とが心をゆるがした旅の浮世であったに違いない。 しかし、三倉鼻の晴々しさは、はてしらずの旅の果てでつかんだ明るさであった。 さて、子規にはもう一基、能代の俳星碑の基台近くに書簡がこまごまと刻まれている。 明治33年1月27日付 悟空(島田豊三郎)宛、規(封薔には正岡常規)とある。 (途中略) 慶応3年(1867)松山生まれ。明治35年9月19日死去。法名子規居士。 |
『あきた句碑物語』鎌田 宏著 1988年9月無明社発行 |