2.古川古松軒「東遊雑記」天明8年(1788年)旧暦8月10日11日の記録
ぬめひろし著「地名譚」から
予がこのたびの道中は、九州廻国の六部修行の体とはこと変わりて、国民に敬せらるるのみにて和しがたく、国人の気象良しとも悪しともさらに知れず。
庄内の辺の言葉にて人の心至って悪しきことに聞きし故に、予 心を付けて見るに、秋田の分に入りては貴賎に限らず
一風流ありて、気象の悪しきこと
ままあり、先方の語も鼻にかかりて解しがたきことままありて、この方の言葉も開きとれぬことゆえ、面倒に思いて召ずることも略せしなり。
荷物をかき荷う人足、一荷に五人も七人もかかることなり。中にも強き人足は
弱き人足ばかりに持たせて、強き者は大将顔して呵(しか)りまわりて荷物を持たざれども、弱き人足の者
是非なく重きを担ぐ体(てい)なり。
木村金次・小泉茂七 これを見かけて馬より飛び下りて、強き悪しき者と覚しき者二人ながら榔(う)ち倒せしこともあり、興ぜしなり。
これらのことも御領主役人より制度なき故か、たびたび記せし如くに、一国にても風俗の変わり様
大いにして、人々あきれしことなり。
山形・鶴岡・本庄・亀田辺などと、この所に比べ見れば雲泥の違いなり。
◇ 十日、久保田(くぼた)の城下出立。五里余大久保(おおくぼ)、三里半一日市(ひといち)宿。◇
久保田より北一里に湊町〔現在 秋田市土崎〕というあり。
この所は秋田六郡の産物 この浦に出し 交易の所にて、中国・九州及び大坂の廻船この湊に入るなり。
このゆえに町も悪しからず、千三百余軒、娼家もありて賑わしき町なり。久保田の本町よりも湊町の方すぐれたり。
この海辺には、沖より大風時々吹きあげると見えて、砂山かしこここにあり。草木さらになく、白々として月夜などには興あるべし。
久保田より大久保まで五里の間は、百姓の家々、南の在町よりは良し。
五里の道は縹渺(ひょうびょう)とせし野原の砂地にて、西の方 男鹿島を見、南遥かに鳥海山を見る。作物生い立ち良し。くれぐれ
百姓の貧しきには不審なり。この辺の瓜、西瓜を作る所にて、食し見るに味わいよし。
予はいずれの所にても百姓の家に入りて風俗を見、諸品の変わりしこともあらんやと、それを楽しみにせしことにて、この辺の家を見るに建て様も変わりて、一家も残りなく土間住居なり。
和歌に、賎が伏屋(ふせや)などと詠みし住居も、かくもあらんと思うなり。家造り
人の伏したるように、軒のなき塩屋(塩釜で海水を煮て塩をつくる小屋)を見るが如きの家多し。この故に伏屋というなり。
◇ 十一日、一日市(ひといち)村 出立、五里豊岡〔現在、豊岡金田〕、野代〔現在、能代〕止宿。◇
一日市より豊岡まで草地にして、八郎ガ沼のほとり通行、馬より男鹿の島を見るに、風景至って良し。西南の原は広大の原にてすすき間(あい)もなく、桔梗、かるかや盛りなり、僅かに見ゆるとは違いて、一里余もある原に一面に咲きしは至ってみごとにして、人びと馬を留めて暫く詠(なが)めしことなり。
この辺は言語解らず、馬卒に 所の名の あるいは家の名 または行程を問うに、通ずることは稀なり。無言にて笑うのみ。まま興もありしことなり。
男鹿島は世に知る所にして、八郎沼の風景はいわん方なし。
この沼の怪説多し。予が信ぜぎることのみ故 記さず。
八郎沼と海と一つになりしものと見えながら、汐入りの所わずかなり。
この沼に海魚入らず、鮒多く、大なるは二尺余、価至って下直にて、大なるは七、八十文、白魚多し。
一ノ井・セセンハゼ・海老も多く、価 白魚に同じ。
この沼南北三十六町道七里、東西一里三里、所によりて遠近あり。
この辺は魚類をはじめとし、瓜・西瓜・なすぴの価甚だ賎し。瓜の大いなるは三銭なり。何とてかくのごとき下直なるや、
「これにては瓜を作りて業になるまじきこと」
と人足の者に訊ねしに、
「この地は米の下直なる所ゆえ、作りてとるも業になる」
といえり。この節 米近年の高直とて、一升につき二十七銭なり。これをもって考え見れば、諸物の下直なるももっとものことなり。
銀を知らず、もとより二朱銀は知らず。御巡見使御用ゆえに、この方より出せる二朱銀を、是非なく取ると見えたり。
豊岡の南一面の原にてかぎりなし。所どころに乞食小屋同前の百姓家を見る。
委しく聞くに、
「人死して墓というものなく、野に葬りて土をかきよせて置くのみ」
と言えり。大家にても竃(かまど)といえるものなし。『いきゐ』と称して炉をして、それにジザイ〔自在鉤〕をつりて煎焚(にたき)をすることなり。
この辺の風俗の義理礼法は元より知らず、身を飾るということも知らず。誠に夷人なり。
予 六十三歳まで「かかる辺鄙なる所、かかる哀れなる暮しもあるや」 とあきるるばかりのことなり。
予、帰郷の後ちに旧友に語りて、おごりある人を刺したきことなり。
野代〔能代〕といえる所は湊にて、千四百軒の地にて、大概の良き町なり。
野代川〔米代川〕流れ、川上は奥州南部より流れ出で、十九里の間は川船往来して、この辺の産物
皆々この湊に出て、北国・九州およぴ大坂の廻船も数多入津して、交易の業あるゆえに、商人多く、豪家も見え倡家も見えて、言語も外より見れば大いに勝れたり。
羽州の内にては最上川第一にて、第二はこの所流るる野代川なり。
唐船番所ありて御巡見所なり。眺望もよく津軽の界までこれより七里、もっとも海浜を行く道のりなり。」
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