古川 古松軒(ふるかわこしょうけん)


1・実証の地理学者 古川古松軒

山陽新報(山陽新聞の前身)から


時代が生んだ“奇傑”  異境への関心、鋭い洞察力
 
◇“奇傑”古川古松軒 七十三万六千百六十七票◇
 昭和四年二月十八日付の山陽新報(山陽新聞の前身)。読者から募った「岡山県十傑投票」の結果が紙面を派手に彩る。圧倒的な得票で奇傑部門の首位に選ばれたのが、在野の地理学者・古川古松軒(一七二六~一八○七年)だった。

 「東遊雑記」「西遊雑記」などの地誌で世に知られた古松軒は、江戸時代の先覚者に違いない。だが、なぜ″奇傑″と呼ばれたのだろうか――。

 
◇44歳で一念発起◇

 備中国新本村(総社市)に生まれた古松軒は、岡田藩の陣屋があった岡田村(真備町)に移り住み、薬商を営んだ。その家は表御門に通じる村の中心部にあったが、現在はわずかに残る石垣からしのぶほかない。

 四十四歳で「一念発起」した古松軒は「今月今日よりばくちをしない」という誓いをしたためた。それまでどんな暮らしだったのか、どこで測量用のコンパスの使い方を身につけたのか…。前半生はなぞに包まれている。

 ◇われは俗に申す遅蒔(おそまき)にて…◇
親類にあてた遺書の中で自ら称した通り、業績は後半生で一気に花開いた。

 天明八(一七八八)年、六十三歳の古松軒は庶民でありながら、東北、北海道の政情を調べる幕府巡見使に加えられる。鹿児島までの一人旅をもとに「西遊雑記」を著して五年後。古松軒の関心も北に向いていた。巡見使一行は五月に江戸をたち、七月二十日、渡島(おしま)半島南端の松前に到着。一カ月滞在した。

 古松軒の長男は、その前年に老中となった松平定信の家臣が抱える医師の養子になり、江戸に住んでいた。「恐らく長男を通じて幕府との接点ができたのだろう」と、岡山県立博物館学芸課長の竹林栄一さん(56)はみる。

 念願の現地踏査を果たした北海道に、旅の足跡を追ってみた。

 ◇ 北限をつづる ◇

 松前から江差へ向かう道は、大千軒岳(1072メートル)から連なる山並みが海岸まで迫り、人家や畑はほとんど見当たらない。水平線から次々にわき上がる黒雲が、見る間に頭上に差し迫って雨を降らせてゆく。

 近世の松前藩領は「日本」の北限だった。果てしなく続く荒涼とした景観は、異境の地を実感させずにはおかなかっただろう。

 巡見使は松前を拠点に北の江差、乙部へ、東の函館市近郊の黒石へと、約百キロずつの行程を往復した。北海道全体から見ればごく狭い地域だが、古松軒は庶民の服装や食事、アイヌ民族の言語や信仰、漁具や海産物など、地理学にとどまらない″生″の情報を「東遊雑記」に書きつづった。

 その記述の正確さは、択捉(えとろふ)島に渡った近藤重蔵、サハリン(樺太)が離島であることを確認した間宮林蔵ら、後に続く北方探検家のよきガイドブックともなる。

 松前城下町の様子は今日とはずいぶん違っていた。〈市中は軒を並べ、こんないい所があるとは人々は夢にも知らないだろう…〉。古松軒は同書で、藩士の屋敷の豪壮さを何度も強調している。

 元松前町史編集長の永田富智さん(73)は「北海道の歴史を語る上で『東遊雑記』は必ず引用される文章だ」と評価する。

 知行の代わりに、定められた「場所」でアイヌと交易する権利を与えられた松前藩士は、侍である前にまず商人だった。古松軒は「松前が最も華やかだった時代」(永田さん)を記録したのだ。

 ◇現実自覚する目◇

 滞在中に作成した「松前蝦夷(えぞ)地之図」が市立函館図書館にあった。縦百七センチ、横八十センチ。地図の余白に、原稿用紙三十六枚分、一万四千六百字もの見聞記事がびっしり。

 例えば、こんなくだりがある。松前で竜を織り込んだにしきを見つけた古松軒は、どこの国のものか尋ねるが、人々は「数千里北方の国だろう」と答えるだけ。一緒にあった品物の漢字の銘から「韃靼(だったん)国は漢字を用いると聞いた。そこから伝来した官服と思われる」と推理する。

 当時の韃靼は、中国とロシアにまたがる黒竜江(アムール川)流域を指す。清朝はこの地方の支配を強めるため、服従した民族に官服を与えていた。

 記事を解読した野田生中学校(北海道八雲町)教諭の高木崇世芝さん(59)は「韃靼との交易は秘密だったはず。古松軒は何がポイントかを理解した上で質問したに違いない」と鋭い洞察力に舌を巻く。

 古松軒はロシアの女帝エカテリーナ二世の肖像も描いた。漂流の末、寛政4(1792)年に帰国した大黒屋光太夫が持ち帰った画像を写したものだ。

 ◇百聞は一見に及ばず。ロシアをこの目で見てみたい…◇

 既に六十七歳を迎えていた古松軒。松平定信に面会して「東遊雑記」を献上した後、自分の棺(ひつぎ)まで用意していたが、北方、異境への関心は衰えることはなかった。

 「師について学んだ形跡のない古松軒は、学問の系譜に位置付けにくい。現実を自覚する目を持ち、つかまえようのない、幅広い人物」。竹林さんは実際に役立つ学問を求める″時代″が古松軒を生んだと言う。

 地理学者であると同時にジャーナリスト、歌を詠み、写生画を描いた文人でもあった古松軒。やはり″奇傑″の一人かもしれない。

  
(文・池本 正人  写真・鈴木 治康)


2.古川古松軒「東遊雑記」天明8年(1788年)旧暦8月10日11日の記録
ぬめひろし著「地名譚」から



 予がこのたびの道中は、九州廻国の六部修行の体とはこと変わりて、国民に敬せらるるのみにて和しがたく、国人の気象良しとも悪しともさらに知れず。
庄内の辺の言葉にて人の心至って悪しきことに聞きし故に、予 心を付けて見るに、秋田の分に入りては貴賎に限らず 一風流ありて、気象の悪しきこと
ままあり、先方の語も鼻にかかりて解しがたきことままありて、この方の言葉も開きとれぬことゆえ、面倒に思いて召ずることも略せしなり。

 荷物をかき荷う人足、一荷に五人も七人もかかることなり。中にも強き人足は 弱き人足ばかりに持たせて、強き者は大将顔して呵(しか)りまわりて荷物を持たざれども、弱き人足の者 是非なく重きを担ぐ体(てい)なり。
木村金次・小泉茂七 これを見かけて馬より飛び下りて、強き悪しき者と覚しき者二人ながら榔(う)ち倒せしこともあり、興ぜしなり。

これらのことも御領主役人より制度なき故か、たびたび記せし如くに、一国にても風俗の変わり様 大いにして、人々あきれしことなり。
山形・鶴岡・本庄・亀田辺などと、この所に比べ見れば雲泥の違いなり。
◇ 十日、久保田(くぼた)の城下出立。五里余大久保(おおくぼ)、三里半一日市(ひといち)宿。◇
久保田より北一里に湊町〔現在 秋田市土崎〕というあり。
この所は秋田六郡の産物 この浦に出し 交易の所にて、中国・九州及び大坂の廻船この湊に入るなり。
このゆえに町も悪しからず、千三百余軒、娼家もありて賑わしき町なり。久保田の本町よりも湊町の方すぐれたり。
この海辺には、沖より大風時々吹きあげると見えて、砂山かしこここにあり。草木さらになく、白々として月夜などには興あるべし。  

久保田より大久保まで五里の間は、百姓の家々、南の在町よりは良し。
五里の道は縹渺(ひょうびょう)とせし野原の砂地にて、西の方 男鹿島を見、南遥かに鳥海山を見る。作物生い立ち良し。くれぐれ 百姓の貧しきには不審なり。この辺の瓜、西瓜を作る所にて、食し見るに味わいよし。

予はいずれの所にても百姓の家に入りて風俗を見、諸品の変わりしこともあらんやと、それを楽しみにせしことにて、この辺の家を見るに建て様も変わりて、一家も残りなく土間住居なり。
和歌に、賎が伏屋(ふせや)などと詠みし住居も、かくもあらんと思うなり。家造り 人の伏したるように、軒のなき塩屋(塩釜で海水を煮て塩をつくる小屋)を見るが如きの家多し。この故に伏屋というなり。
 
十一日、一日市(ひといち)村 出立、五里豊岡〔現在、豊岡金田〕、野代〔現在、能代〕止宿。

一日市より豊岡まで草地にして、八郎ガ沼のほとり通行、馬より男鹿の島を見るに、風景至って良し。西南の原は広大の原にてすすき間(あい)もなく、桔梗、かるかや盛りなり、僅かに見ゆるとは違いて、一里余もある原に一面に咲きしは至ってみごとにして、人びと馬を留めて暫く詠(なが)めしことなり。

この辺は言語解らず、馬卒に 所の名の あるいは家の名 または行程を問うに、通ずることは稀なり。無言にて笑うのみ。まま興もありしことなり。
男鹿島は世に知る所にして、八郎沼の風景はいわん方なし。

この沼の怪説多し。予が信ぜぎることのみ故 記さず。
 
八郎沼と海と一つになりしものと見えながら、汐入りの所わずかなり。
この沼に海魚入らず、鮒多く、大なるは二尺余、価至って下直にて、大なるは七、八十文、白魚多し。
一ノ井・セセンハゼ・海老も多く、価 白魚に同じ。
この沼南北三十六町道七里、東西一里三里、所によりて遠近あり。

 この辺は魚類をはじめとし、瓜・西瓜・なすぴの価甚だ賎し。瓜の大いなるは三銭なり。何とてかくのごとき下直なるや、
「これにては瓜を作りて業になるまじきこと」
と人足の者に訊ねしに、
「この地は米の下直なる所ゆえ、作りてとるも業になる」
といえり。この節 米近年の高直とて、一升につき二十七銭なり。これをもって考え見れば、諸物の下直なるももっとものことなり。

銀を知らず、もとより二朱銀は知らず。御巡見使御用ゆえに、この方より出せる二朱銀を、是非なく取ると見えたり。

 豊岡の南一面の原にてかぎりなし。所どころに乞食小屋同前の百姓家を見る。
委しく聞くに、
「人死して墓というものなく、野に葬りて土をかきよせて置くのみ」
と言えり。大家にても竃(かまど)といえるものなし。『いきゐ』と称して炉をして、それにジザイ〔自在鉤〕をつりて煎焚(にたき)をすることなり。
この辺の風俗の義理礼法は元より知らず、身を飾るということも知らず。誠に夷人なり。
予 六十三歳まで「かかる辺鄙なる所、かかる哀れなる暮しもあるや」 とあきるるばかりのことなり。
予、帰郷の後ちに旧友に語りて、おごりある人を刺したきことなり。

 野代〔能代〕といえる所は湊にて、千四百軒の地にて、大概の良き町なり。
野代川〔米代川〕流れ、川上は奥州南部より流れ出で、十九里の間は川船往来して、この辺の産物 皆々この湊に出て、北国・九州およぴ大坂の廻船も数多入津して、交易の業あるゆえに、商人多く、豪家も見え倡家も見えて、言語も外より見れば大いに勝れたり。
羽州の内にては最上川第一にて、第二はこの所流るる野代川なり。

唐船番所ありて御巡見所なり。眺望もよく津軽の界までこれより七里、もっとも海浜を行く道のりなり。」


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