願人踊(6)
井川町史から
今戸地区に伝承されている願人踊りの由来はつまびらかでないが、江戸時代に地方を回った願人坊主が伝えたとされている。
同種の願人踊りが隣接する大川(五城目町)と一日市(八郎潟町)にも伝えられており、これについて『八郎潟町史』では 「願人というのは、下級山伏、修験僧のこと のちに伊勢、熊野信仰の芸人となって、地方のドサ回りをして宗教を広めた」 としながら、「江戸の中期、天明のころ、羽立 (八郎潟町) の村井金之丞が、伊勢参宮をしてその土産に伊勢音頭の手振りを従来の願人踊りに挿入したという。 明治元年 (一八六八) には歌舞伎・忠臣蔵 五段目) のユーモラスな寸劇を組み入れるようになった」 と解説している。
また 『日本歌謡研究』 (第十五号) に願人坊主の芸能について、「定九郎は百日鬘(かずら)にどてら着の山賊姿である。隈取りも独特である。この定九郎は初代中村仲蔵が明和三年(一七六六)九月、江戸市村座の興行で、今日見るような五分月代鬘(かずら)、黒羽二重(くろはぶたえ)の単衣の、手足も白塗りの江戸浪人の姿に改める以前の扮(ふん)装である。演技も全く荒事である。 どうして八郎潟町にこの古い定九即の型が伝え残されているのか」との、興味深い記述もある。
今戸の願人踊りもまた隣町のものと形態や構成がほとんど同じで、かつて藩政のころは一日市・大川・今戸が一連の生活文化圏にあったことから、同系統のものであろうと考えられている。現在の今戸願人踊りが、その身振りや動きにおいて幾分活発だとされるのは、浜っこの気質がより濃厚に反映されたものであろうか。
また、寸劇が終わって再び踊りが繰り返されるとき、唄はタント節になり、この部分については比較的新しい年代に、変化に富んだ大衆向けにするため組み入れられたものではないかとみられ、昭和初期すでにこのような形で伝承されていた。
昭和十年代までは熊野神社の祭典の際、村の若者が境内でこれを演じ、神前に奉納した後、豊作祈願と町内安全を願って部落内を回り、各戸の門口などで演ずる習わしであった。 しかし、戦後は意識や生活態様の変化などによって後継者が育たず、数次にわたつて存亡が危ぶまれた。
昭和二十五年、「今戸唄の会」を中心とする青年有志によって再興され、県の郷土芸能大会で入賞を果たすなど保存の体制が整えられたが、同四十年代初めごろ、演技保存者の離村が相次いで、再び伝承が危ぶまれ、同五十三年以降地元の小学校児童による伝承保存体制が再度同地の有志によって確立された。現在は今戸児童館の活動計画にも組み入れられ、祭典には神社境内のほか今戸集落の主要箇所で演じられるほか、町内外の各種行事でも郷土芸能として公演する機会が多くなっている。
井川町史 第二節文化 2郷土の芸能 から転用
役柄と装束
【口上あげ】 一人、頬かぶり、長襦袢(じゅばん)に前垂れをつけ、鈴のついた手甲・脚絆(きゃはん)に白足袋をはき、たすきを背 中に結んでその端を長く垂らし、襦袢の裾をはしょって拍子木を持つ。
【音頭あげ】 一人、装束は前者に同じ。「豊年万作作踊り」の幣束と鈴のついた立札と竹のささらを持つ。
【唄い手 】 四人、装束は前者に同じ。幣束と鈴のついた風流傘に入り、うち二人は竹のささらを持つ。
【踊り手 】 四人、手ぬぐいの鉢巻きのほか装束は前者に同じ。
【定九郎 】 百日鬘(かずら)にどてらをつけ、素足のまま腰に太い縄帯を巻いて長刀二本を差す。
【与市兵衛】 白髪を結った鬘に、縞の着物の裾をはしより、手甲・脚絆に草蛙をはき、腰にどうらん (煙草入) を下げ、ござ蓑と菅笠を背負う。